Masuk(いや、まさか、そんな……あり得ないって!)
一瞬、頭によぎった可能性を、僕は全力で否定してカクテルを煽るように飲む。
ライチの爽やかな香りが、脳内をクリアにはしてくれる。けれど、目の前にある鍵の処遇については、何の解決策も浮かばなかった。
僕は小さくため息をついて、他の席を眺める。
カウンター席には、僕の他に一人の男性が座っていた。
ボックス席の方に視線を向けると、カップルや友達同士らしい客が複数人いる。そんな中、一番奥の席に相沢さんの姿があった。
(あ、いた!)
鍵を返しに行こうと、席を立ちかける。けれど、彼の対面に肩を落とした女性が座っているのが見えた。
(そういえば、マスターに何かお願いされてたっけ)
座り直した僕は、相沢さんとマスターの先ほどの会話を思い返す。確か、相沢さんを指名していたような気がする。
何をしているのだろうと眺めていると、相沢さんとその女性は、会話をしているだけのように見えた。ただ、楽しんでいるようには見えない。どうやら、彼女は、相沢さんに何かを相談しているらしい。マスターが彼に頼んでいたのは、客の相談に乗ってほしいというものだったようだ。
(へえ。カウンセラー的な立ち位置なのか)
なるほどと、様子をうかがう。
次第に、女性の表情が、暗いものから明るいものへと変わっていく。きちんと相手に向き合っているようだ。そんな姿を見てしまったら、会話に割り込むだなんてできるはずもない。
夜のお誘いをする口実だと思っていたのに。彼は、僕が思っているよりも誠実な人なのかもしれない。
(昨日の夜の事は、魔が差しただけ……だよな。うん、きっとそうだ)
と、僕は自分を納得させる。
個人的に話がしたいというのも、言葉通りの意味なのだろう。そう考えた僕は、彼の手が空くまで待つことにした。
けれど、そんな時間はやってこなかった。カクテルとローストナッツの量だけが増えていく。彼が僕の近くを通りすぎる度に声をかけようとして、やめた。仕事の邪魔はしたくない。僕は、小さく息をついて帰ることにした。
店を出ると、辺りはすでに暗くなっていた。軒を連ねる飲み屋のネオンサインが、賑やかに夜を照らしている。
しっかり酔っているはずなのに、酔った気がしない。それもこれも、相沢さんの家の鍵を
僕は振り返って、篝火の入り口を見やる。
黒い扉は、もちろん何も言わない。店名にもなっている篝火を模したライトに照らされて、その存在感だけを誇示していた。
僕はため息をつくと、重い足取りでアパートに向かう。このまま、彼の自宅のポストに鍵を届けてしまおうかなんて考えが頭をよぎる。けれど、僕はまっすぐ自宅に向かう選択をした。ただ本当になんとなく、直接、手渡したいと思った。
帰宅した僕は、ソファーに寝転び、彼の自宅の鍵を片手で弄ぶ。時折、相沢さんの野獣のようやまなざしが脳裏に浮かんだ。体が火照り、下半身がびくりと跳ねる。その度に、悪態をつきながら頭を振って、彼の幻影を追い出す。
「個人的な話、か……」
僕は、篝火での相沢さんとの会話を思い出していた。
込み入った話がしたいと言っていた。いったいどのような話がしたいのだろう。あの場で客の相談に乗っているのだから、話せないような事など何もないような気もする。
(もしかして、僕に気がある? ……いや、それはないか)
変な想像をしてしまい、即座に否定する。かっこよくてモテそうな彼が、しがない三十代のサラリーマンである僕に、そんな感情を持つはずがない。それに、先ほどの女性のように異性ならともかく、僕は男だ。昨夜の事は、戯れにすぎないだろう。
少し仮眠を取ろうと、テーブルの上に鍵を置く。
『佳晴さん』
突然、バーでの彼の声が耳の奥に響いた。
「――っ!?」
心臓が跳ね、息が止まる。
どうして思い出してしまったのか、わからない。けれど、すでに僕の体は、抗えないほどの劣情に支配されていた。
「何で、こんな……」
吐息とともにつぶやくけれど、すぐには収まりそうもない。
理性とは無関係に昂ぶっていく劣情に舌打ちをして、僕は下半身に手を伸ばした。自分自身に触れ、欲望を吐き出そうとしても上手くはいかない。
ふと、テーブルの上にある鍵が、視界に写る。瞬間、僕自身が硬く反り立つ。
(う、そ……だろ?)
自分の事なのに、驚きを隠せない。それでも、自身に充てがっている手の動きは止まらなかった。
「あ……相沢、さん……っ!」
彼の名前を口にした直後、僕は呆気なく果ててしまった。
息を整えつつ、後処理をする。もう認めざるを得ない。僕は、相沢さんに囚われている。逃げても、抗っても、結局は彼を求めてしまう。
「いったい、どんな呪いだよ……」
吐き捨てるように言って、僕はソファーに身を沈めた。欲望は吐き出したはずなのに、自身はまだ緩く勃ち上がろうとしている。自分の体に嫌気が差し、僕は深くため息をついた。
* * * *
気がつくと、時計は午後十一時十四分になっていた。篝火の閉店時間は、とっくにすぎている。どうやら、いつの間にかソファーで眠っていたらしい。
「鍵……相沢さんに返さなきゃ」
うわ言のように言って、僕は軽く顔を洗って家を出た。
アパートの階段を登りながら、相沢さんの部屋はどこだっただろうかと記憶を漁る。けれど、逃げるのに必死で、正確な場所までは覚えていない。
どうしようかと考えているうちに、階段を登りきってしまった。ため息とともに廊下を見ると、二部屋先の扉の前に相沢さんがいた。
僕の姿を認めたのか、相沢さんはこちらを向いて手を振っている。
(そこまで仲良くないだろ……)
なんて思いながら、足早に相沢さんのもとに向かう。
「こんばんは。鍵、返しに来ました」
「よかったー。来てくれないかと思ったよ」
冗談めかして告げる相沢さんに、僕は鍵を渡した。
それじゃあと踵を返すと、
「ちょっと待って!」
と、相沢さんに腕を掴まれた。
「んっ……!」
びくりと肩を震わせ、僕ののどから音が漏れた。明確な声ではないものの、相沢さんには確実に聞こえているだろう。
「は、離してください! 僕の用事は、すでに終わったんですから」
口早に言って振り解こうとする。
「離しませーん。そんな反応されたら、帰したくなくなるっつの」
その言葉通り、相沢さんの力は緩まる気配がない。
僕は、唇を固く引き結んだまま、彼に掴まれた腕を引こうとする。
「もう、強情だなあ。とりあえず、話だけでも付き合ってよ」
と、相沢さんが苦笑する。廊下の灯りのせいか、どこか彼の表情に影があるような気がした。
話だけならと承諾し、僕は抵抗するのをやめた。話だけで終わらないだろうことは、充分にわかっている。けれど、無事に帰れたところで、この呪いからは逃れられないと理解してしまった。
彼の家に招かれ、リビングに通される。
「適当に座ってて」
と、相沢さんはカウンターキッチンへ向かった。
僕は、複雑な心境を抱えたまま、自分に一番近い椅子に腰かけた。
しばらくすると、相沢さんが二つのカクテルグラスを持って戻ってきた。どちらも、きれいな淡黄色をしているカクテルだ。
「はい、どうぞ」
と、僕の目の前に片方のグラスが置かれる。
「……ありがとうございます」
一応、お礼は言ったものの、それに手をつける気はなかった。
「一応、言っておくぜ。それ、アルコール度数、高いから」
言いながら、相沢さんは僕の対面に座る。
「話だけって約束でしたよね?」
疑問形ではあるものの、僕は彼を睨みつけながら非難する。
「そんなの、佳晴さんを招くための口実だよ、わかってるでしょ? ……まあいいや。ビトウィーン・ザ・シーツって言うんだけどさ、それ。つまり、そういう事だから」
と、相沢さんはさらっと言ってのけた。
「直球すぎるだろ!」
思わず、僕は声を上げてしまった。
カクテル名が、『ベッドに入って』という意味だからだ。
「佳晴さん相手に、もう騙し討ちとかしたくないからさ」
相沢さんは、そう言って薄く笑みを浮かべる。
「さっき、騙したくせに」
彼を睨みつけながら、僕はぽつりとつぶやいた。
「悪かったって。けど、ああでも言わないと、あんた、来てくれなかっただろ?」
弁解するように言って、相沢さんは肩をすくめる。
「それはそうですけど……。それで、貴方は、僕をどうしたいんですか?」
僕が仏頂面でたずねると、
「そのカクテル、そのままの意味だよ。さっきの反応を見ると、あんたもそのつもりなんだろ?」
と、相沢さんは妖艶な笑みを浮かべる。
結果的には、そうなのかもしれない。でも、少なくとも、彼のように積極的なわけではない。
「素直になった方が楽だぜ? それとも、襲われたいの?」
のどの奥で低く笑う相沢さん。グラスを傾ける仕草も、どこか色っぽく見える。
「襲われたいなんて、そんなわけないじゃないですか。ただ……」
何かを言いかけて、僕は相沢さんから視線をはずした。
「ただ、何?」
と、相沢さんが続く言葉を要求する。
攻められているわけでもないのに、彼の視線が痛い。
(何を言おうとしたんだ? 僕は……)
自分でもよくわかっていなくて、視線が泳ぐ。
思考がまとまらず、ただ、相沢さんへの思いが胸の中に汚泥のように積み重なっていく。
「佳晴さん」
相沢さんが、僕の名前を呼んで催促をする。
僕は、諦めたようにため息をついた。
「僕はただ、貴方に囚われてるだけなんです。貴方の視線、声、仕草。そのすべてが、僕を煽る。どうしても、昨夜の事が、頭から離れないんです」
独白のように言葉を紡ぐ。
相沢さんは、黙って僕の言葉を聞いている。
「ねえ、相沢さん。どうして、僕を抱いたりしたんですか? 貴方に抱かれなければ……貴方に会わなければ、こんなに苦しまなくて済んだのに!」
彼が何も言わないのをいいことに、僕はどす黒い感情を言葉に乗せてぶつけた。
顔色一つ変えずに聞いていた彼は、ほんの一瞬、仄暗い笑みを浮かべる。まばたきの間に、いつもの妖艶な笑みに戻っていた。だから、見間違えかとも思った。けれど、彼の雰囲気が、先ほどまでとは違うように感じた。
「あんたが、俺の好みのタイプだから」
にやりとした相沢さんが、端的にそう告げる。
「え……僕が、好みのタイプ……?」
僕は驚いて、彼の言葉を繰り返した。
それは、僕が自宅で即否定した可能性だ。まさか、彼の口から聞くことになるなんて、想像すらしていなかった。
「佳晴さんって、かわいい顔してるよな」
唐突に言って、相沢さんはカクテルを煽る。
「……よく言われます」
童顔だからしかたがないし、かわいいと言われることには慣れている。
「それに、チョロくて心配になる」
彼は、薄く笑いながら、ねっとりとした口調で告げる。
その言葉には、反論できなかった。悪い男に騙されて、のこのこ家に上がり込んでしまっているのだから。
「そういう奴って、だいたいお人好しでさ。ちょっと揺さぶりかければ、こっちの思い通りに動いてくれる。だから、超絶好みなんだよね」
と、相沢さんは舌なめずりをする。
悪役みたいな笑顔を浮かべる彼に、僕は嫌悪感を抱いた。バカにされているようで腹が立つ。
「そう……ですか。でも、本当に、僕を意のままにできると思ってるんですか?」
と、僕は苛立ちを言葉の端ににじませる。
「できるぜ。たぶんな」
たぶんとは言いつつも、彼は自信たっぷりに告げる。
おそらく、それは事実だろう。現に、僕の体は、すでに彼に囚われているのだから。けれど、そうだとしても、認められるわけがない。
「佳晴さんは、俺にはできないと思ってるんだ?」
相沢さんは、僕をうかがい見るようなまなざしでたずねる。
「ええ。本当の意味で、僕を意のままにはできないと思ってます」
彼を見据えて、毅然とした態度で答える。
「ふーん? じゃあ、試してみる?」
切れ長の目を細め、相沢さんは挑発するように言った。
「いいえ、結構です。僕は、これで帰りますから」
僕は、静かに告げて席を立つ。
「あれ、帰っちゃうの? 期待して、勃たせてるのに?」
と、相沢さんが、舐めるように僕の股間に視線を向けた。
瞬間、僕自身がどくりと脈打ち、ズボンの股布を押し上げようと迫り上がってくる。
「ぁ……くっ!」
恥辱と屈辱に声を上げ、僕は相沢さんを睨みつける。
「見つめただけなのに。それでも、帰るの?」
楽しそうに、相沢さんが問いかけてくる。
股間を凝視する彼の視線は、ゆっくりと僕の肢体を舐め上げる。その度に、肌はざわめいて感度を上げ、僕を焦らすように追い詰める。
息は上がり、腹の奥がしびれるように疼く。早く楽になりたい、そんな思いが脳裏によぎる。
(でも、本当にそれでいいのか?)
わずかに残った理性が、そう問いかけてきた。
「ぁ……ごめん、汚しちゃった」僕は、荒い息のまま謝罪する。僕の足先の床に、白濁の液体が水溜りのように広がっている。「あぁ、別にいいよ。後で掃除するから。それよりさ、ベッド行こうぜ」「あぇ……ベッド?」「あんたのかわいい顔見ながら、イきたい。いいだろ?」竜希は、そうささやいて僕の耳たぶを甘噛みする。「ん……っ! ぁ……少しだけ、じゃなかった?」「満足させてくれって言ったのは、あんただぜ?」くつくつと笑う竜希は、僕から自身を抜いた。「ひぅ……」ずるりと引き抜かれる感触に、思わず声が出てしまった。「こんなんじゃ、まだ足りねえだろ?」妖艶に告げる竜希に、僕は無言でうなずいた。「だよな。おいで」彼にうながされてベッドに向かうと、優しく押し倒された。「佳晴さん、かわいい。ずっと、俺だけ見てて」竜希はそう言うと、僕の返事を待たずにキスをした。優しく甘く温かいキスに、ゆっくり溶けてしまいそうだ。(僕だけ見てて、竜希……)独占欲にも似た感情が、胸の中に溢れてくる。息が苦しくなるのも構わずに、僕達は貪るようにキスをする。呼吸の一つ、唾液の一滴さえも逃したくないくらいに夢中になっていた。「んぁ……」甘くとろけた吐息が漏れた。舌もしびれている。(このまま、キスしていたい……)ぼんやりとそんな事を思っていると、竜希の唇がふっと離れた。名残惜しくて目を開けると、竜希は瞳をギラつかせていた。本能むき出しの姿に雄を感じて、心臓が跳ねる。同時に、僕自身が硬く反り勃ち、腹の奥が疼いた。「た、つき……」もたつく
注文していたピザが届くと、僕達はいつものように向かい合って食卓を囲んだ。僕の前にはアスパラとベーコンとコーンが乗ったピザが、竜希の前にはペパロニがたくさん乗ったピザが置かれている。いただきますと言って食べ始める。シャキシャキとしたアスパラの食感とベーコンの塩気、それにコーンの甘味がちょうどいい。「佳晴さんのも美味そうだな。一切れちょうだい」「いいよ。そっちの、一切れもらっても?」「もちろん」と、互いのピザの一切れを交換する。もらったピザを一口食べると、ペパロニ独特の肉の味とチーズのコクが口の中いっぱいに広がった。「これも美味しいな」「だろ? 一番好きなピザなんだよね。こっちはどうかな、と。……美味い! これ、好きだ」アスパラベーコンのピザを一口食べると、竜希の顔に満面の笑みが咲いた。「よかった、気に入ってもらえて。このピザ、僕のお気に入りなんだ」「じゃあ、よく頼むんだ?」「うん。たまに、別のを選ぶけどね。期間限定のとか、クアトロフォルマッジとか。でも、結局これに戻っちゃうんだよね」「ああ、それは確かにわかるかも。食い飽きない味だもんな、これ」言いながら、竜希はその一切れを頬張る。そんな彼を見て、ほっとすると同時に笑みがこぼれた。誰かと好きな味を共有できることが、とてもうれしい。それに、自宅で食べるピザよりも、格段に美味しい気がする。(これも、竜希と一緒だからかな)なんて、自然と彼に視線が行く。「どうしたの? そんなに見つめてくれちゃって。もしかして、もう一切れ欲しい?」小首をかしげて、竜希は自分のピザを指さした。「違うよ。竜希と一緒だから、ピザが美味しいなって思っただけ」僕は、わずかの逡巡、思ったままを伝えた。「……そっか。それなら、よかったよ」と、竜希はにやりと口角を上げる。けれど、爽やかな笑顔とも妖艶なそれとも違う。少しだけ、揶揄いが含まれているような感じがした。
カフェを出た僕達は、真っ直ぐアパートへと向かった。その間も、竜希は当然のように愛をささやいてくる。聞いているこちらが恥ずかしくなるくらいの甘い台詞だ。でも、うれしすぎて自然ににやけてしまう。「もうわかったから、やめろって」「嫌だね。俺がどれだけ佳晴さんを愛してるか、ちゃんと理解してもらわなきゃ」「理解してるから。変に嫉妬して、悪かったよ」「別に、それはいいよ。俺だって、嫉妬してもらえるのはうれしいからさ。でも、俺にはあんたしかいないの。他の奴なんかどうでもよくなるくらい、佳晴さんに惚れてるの。もう、あんたなしじゃ、生きられねえんだよ」ねっとりと告げる竜希の言葉に、僕の体は熱くなり、自身は股布を押し上げるほど主張している。(まったく、運転中なのにな……)僕は、軽く息をついた。早く彼に触れたい、抱きしめたい。焦燥感にも似た思いが込み上げ、ハンドルを握る手に力が入る。もちろん、安全運転は心がけているけれど。「なあ、竜希?」「ん? 何?」「どうして、そんなに僕を口説いてるんだ? もう堕ちてるのに」「さあ? どうしてだろうな?」他人事のように竜希が言った。ちらりと見た横顔には、困ったような笑顔が浮かんでいる。「まあでも、俺があんたに伝えたいだけだから。そんなに、重く考えなくていいんじゃねえの?」明るい口調で問いかける竜希。確かに、深刻に受け止めなくてもいいのかもしれない。「そうだな。竜希が僕を好いてくれてるんだから、それでいいか」「おう。で? 佳晴さんは?」「え、僕?」「そう。俺の事、好き?」「もちろん好きだよ。貴方の隣を、誰にも渡したくないくらいにはね」平然と言ってのける。でも、内心は、顔から火が出るほど恥ずかしかった。今まで、こんな台詞を言った事なんて一度だってなかった。なのに、竜希が相手だと、言葉が自然と溢れてくる。僕にとって、彼はすでに特別な存在になっていた。
売店に戻ると、竜希に話しかけているらしい二人組の女性が目についた。(もしかして、逆ナンされてる?)胸の中に黒いものが広がる。同時に、指先が冷えていく。気持ちを落ち着かせるように、一度ゆっくり息を吐いた。「お待たせ」と、明るく竜希に声をかけた。「あ、佳晴さん」竜希は、助かったとばかりに顔をほころばせる。「僕の連れに、何かご用ですか?」女性陣に優しくたずねる。もちろん、笑顔を保ったままだ。「あ、いえ……おしゃれでかっこいい方だから、ちょっとお話を聞きたくて」と、ショートカットの女性が臆面もなく話す。「……あっ!」僕が口を開こうとした瞬間、もう一人の女性が声を上げた。見ると、トイレ前でぶつかりそうになった小柄な女性だった。「あぁ……先ほどは、すみませんでした」「いえ、私の方こそ、ちゃんと見てなかったので」「あれ? 佳晴さんの知り合い?」竜希が小首をかしげる。「いや、さっき、ぶつかりそうになってな」事実を端的に告げる。「あの! もしよかったら、この後、食事とかどうですか? 何か、お詫びしたくて」小柄な女性は、申し訳なさそうに告げる。実際にぶつかったわけではないから、そんなに気を遣わなくていいのだけれど。「すみません、お気持ちだけいただきます。僕達、デート中なので、これで失礼しますね」にこやかに、でもきっぱりと言うと、僕は竜希を連れてその場を離れた。科学館を出るまで、僕達は無言だった。竜希は、何となく気まずくて黙っているだけなのかもしれない。でも、僕の場合は違った。心の中に渦巻く黒い感情に、囚われていた。「佳晴さん」竜希に呼ばれたけれど、答えずに車へと向かう。「おい、待てよ。佳晴さん!」彼が何を言いたいのか、何となく分かるよ
デート当日、僕はアラームが鳴る前に目が覚めた。「……楽しみにしすぎだろ」と、自分に呆れる。でも、浮足立っているのは事実だ。(さてと。何を着て行こうかな?)なんて、恋する乙女みたいなことを考える。あれでもないこれでもないと悩み、ようやく服が決まった時には、起きてから三十分ほど経っていた。内心、焦りながら身支度を整える。ちょうど準備が整ったところで、呼び鈴が鳴った。玄関を開けると、竜希が立っていた。相変わらずかっこよく決めていて、胸元には銃弾のネックレスが揺れている。「おはよう、佳晴さん」「おはよう。約束の時間より、ちょっと早いんじゃないか?」自分の事は棚に上げて、竜希にたずねる。スマホの画面をちらりと見ると、約束の時間より十五分も早い。「あんたに、早く会いたかったから」竜希は、爽やかな笑顔で、恥ずかしげもなく答える。「――っ! それは、うれしいけど……」顔が熱い。竜希の顔をまともに見られない。「照れてる佳晴さん、かわいい。とりあえず、飯食いに行こうぜ」僕はうなずいて、彼とともに家を出る。迷わず自分の車へ向かうと、「佳晴さん? 今日は、俺が車出すよ?」途中で立ち止まった竜希が、車の鍵を見せて言った。僕は首を横に振って、運転したい気分だからと告げる。そういう事ならと、竜希は快くうなずいてくれた。車に乗り込んで、どこへ行こうかと話し合う。「んー、そうだな……ファミレスでいいんじゃね?」「じゃあ、プラネタリウム近くで、ファミレス探そうか」そう言って、プラネタリウムがある科学館近くへと車を走らせる。しばらく運転すると、馴染みのあるファミレスのチェーン店が見えてきた。駐車場に車を止め、店内に入る。昼時ともあって、明るい店内は賑やかだった。空いている席に座り、料理を注文する。しばらくす
「んぅ……ふ……」頭の芯が甘くしびれ、吐息が漏れる。いつもなら、このまま押し倒され、体を重ねる流れだ。でも、押し倒される気配はおろか、肌を滑る指の感触さえない。(まだ、しないのかな?)少し残念に思ってしまった。「……それじゃあ、いつ行こうか?」僕から離れると、竜希は何事もなかったかのように聞いた。「ぁ……えっと……」頭がぼうっとして、上手く働かない。そんな事よりも、もっと触れてほしくて竜希を見つめる。「ん? どうしたの?」妖艶な笑みを浮かべる彼に、じれったさを覚えた。「……したい」視線をはずして、ぽつりとつぶやく。思ったよりも拗ねた言い方になってしまった。「んー? 何をしたいのかな?」にまにまと煽る竜希に、「……もう! エッチしたいって言ってるんだよ!」噛みつくように言った。満足そうに笑う竜希。何だか、彼の思惑通りに動かされたような気がしてならない。「まだ決めてない事あるけど、いいの?」「よくない、けど……」ごにょごにょと口ごもる。キスをしたせいで、体が火照ってしかたがない。「なら、決めちまおうぜ。全部終わってからなら、抱いてやるよ」甘やかな誘惑に、僕は無言でうなずいた。深呼吸をして、湧き上がる欲望をなだめる。思考を一旦クリアにして、パソコンの画面に視線を戻した。プラネタリウム施設の開館日を確認する。「あれ? 月曜、休みなんだ?」隣にいる竜希が、残念そうにつぶやく。「そうみたいだね。もしかして、休み取るの難しい?」難しいなら自分がと言いかけるけれど、竜希は首を横に振った。「ああ、それは
カフェに到着した僕達は、店内の奥にある席を選んだ。周囲に他の客の姿はなく、相談事をするにはうってつけだった。とはいえ、本当に彼女に相沢さんとの事を話してしまっていいのかどうか、今更ながらに悩んでしまう。注文を取りに来た店員に、理沙さんは紅茶とイチゴのパフェを、僕はコーヒーをそれぞれ注文する。「……それで、相馬さんは、何を悩んでるんです?」店員の気配がなくなってから、理沙さんがたずねた。「それは……」口ごもる僕に、理沙さんは肩をすくめて、「まあ大方、相沢先輩との事なんだろうけど」
よそよそしい彼の作り笑いが、仕事中も脳裏にこびりついて離れない。忘れようとして、ジムで汗を流す。けれど、彼の低く甘い声が、耳の奥にこだまして、忘れさせてくれない。自宅に帰ってからも、彼の幻影は消えてはくれなかった。『佳晴さん』ふいに、彼の甘えるような声音が蘇る。「……っ!」劣情を抱えた僕は、窄まりにも手を伸ばす。彼の手つきを再現するように動かすけれど、どこか物足りない。「相沢、さんっ……!」僕は、少し強引に欲望を吐き出す。すっきりしたはず
翌日。体のだるさを引きずりながら、僕は目が覚めた。窓からは、相変わらず暖かな日差しが差し込んでいる。ふと横を見ると、相沢さんがかすかな寝息を立てている。(……きれいだよな)彼の寝顔を見ながら、僕はそんな事を思った。穏やかな寝顔を見ていると、昨夜の激しさが嘘のようだ。僕は、何の気なしに彼の髪をなでる。さらりとした質感がとても心地よくて、ずっと触っていたくなる。「ん……よしはる、さん……?」ぽやっと
意識が浮遊する感覚と少しの眩しさに、僕はゆっくりとまぶたを開けた。(ここ……どこだ?)知らない布団の感触に、ふと疑問に思う。視界に写るのは、窓から差し込む日光に照らされた、見覚えのある天井と壁。なのに、周囲にある調度品は、知らない物ばかりだった。「痛っ……!」頭が痛み、思考を邪魔してくる。昨夜は、行きつけのバーで飲んでいた。もしかしなくても、飲み過ぎたのだろう。久しぶりの二日酔いに、僕のテンションは急降下だ。とりあえずベッドから出ようとして、僕は違和感に気づいた。普段はあるはずの、布の感触がない。「……は?」布団の中を確認して、思わず、声が出てしまった。あり得ないことに、僕







