ログイン(いや、まさか、そんな……あり得ないって!)
一瞬、頭によぎった可能性を、僕は全力で否定してカクテルを煽るように飲む。
ライチの爽やかな香りが、脳内をクリアにはしてくれる。けれど、目の前にある鍵の処遇については、何の解決策も浮かばなかった。
僕は小さくため息をついて、他の席を眺める。
カウンター席には、僕の他に一人の男性が座っていた。
ボックス席の方に視線を向けると、カップルや友達同士らしい客が複数人いる。そんな中、一番奥の席に相沢さんの姿があった。
(あ、いた!)
鍵を返しに行こうと、席を立ちかける。けれど、彼の対面に肩を落とした女性が座っているのが見えた。
(そういえば、マスターに何かお願いされてたっけ)
座り直した僕は、相沢さんとマスターの先ほどの会話を思い返す。確か、相沢さんを指名していたような気がする。
何をしているのだろうと眺めていると、相沢さんとその女性は、会話をしているだけのように見えた。ただ、楽しんでいるようには見えない。どうやら、彼女は、相沢さんに何かを相談しているらしい。マスターが彼に頼んでいたのは、客の相談に乗ってほしいというものだったようだ。
(へえ。カウンセラー的な立ち位置なのか)
なるほどと、様子をうかがう。
次第に、女性の表情が、暗いものから明るいものへと変わっていく。きちんと相手に向き合っているようだ。そんな姿を見てしまったら、会話に割り込むだなんてできるはずもない。
夜のお誘いをする口実だと思っていたのに。彼は、僕が思っているよりも誠実な人なのかもしれない。
(昨日の夜の事は、魔が差しただけ……だよな。うん、きっとそうだ)
と、僕は自分を納得させる。
個人的に話がしたいというのも、言葉通りの意味なのだろう。そう考えた僕は、彼の手が空くまで待つことにした。
けれど、そんな時間はやってこなかった。カクテルとローストナッツの量だけが増えていく。彼が僕の近くを通りすぎる度に声をかけようとして、やめた。仕事の邪魔はしたくない。僕は、小さく息をついて帰ることにした。
店を出ると、辺りはすでに暗くなっていた。軒を連ねる飲み屋のネオンサインが、賑やかに夜を照らしている。
しっかり酔っているはずなのに、酔った気がしない。それもこれも、相沢さんの家の鍵を
僕は振り返って、篝火の入り口を見やる。
黒い扉は、もちろん何も言わない。店名にもなっている篝火を模したライトに照らされて、その存在感だけを誇示していた。
僕はため息をつくと、重い足取りでアパートに向かう。このまま、彼の自宅のポストに鍵を届けてしまおうかなんて考えが頭をよぎる。けれど、僕はまっすぐ自宅に向かう選択をした。ただ本当になんとなく、直接、手渡したいと思った。
帰宅した僕は、ソファーに寝転び、彼の自宅の鍵を片手で弄ぶ。時折、相沢さんの野獣のようやまなざしが脳裏に浮かんだ。体が火照り、下半身がびくりと跳ねる。その度に、悪態をつきながら頭を振って、彼の幻影を追い出す。
「個人的な話、か……」
僕は、篝火での相沢さんとの会話を思い出していた。
込み入った話がしたいと言っていた。いったいどのような話がしたいのだろう。あの場で客の相談に乗っているのだから、話せないような事など何もないような気もする。
(もしかして、僕に気がある? ……いや、それはないか)
変な想像をしてしまい、即座に否定する。かっこよくてモテそうな彼が、しがない三十代のサラリーマンである僕に、そんな感情を持つはずがない。それに、先ほどの女性のように異性ならともかく、僕は男だ。昨夜の事は、戯れにすぎないだろう。
少し仮眠を取ろうと、テーブルの上に鍵を置く。
『佳晴さん』
突然、バーでの彼の声が耳の奥に響いた。
「――っ!?」
心臓が跳ね、息が止まる。
どうして思い出してしまったのか、わからない。けれど、すでに僕の体は、抗えないほどの劣情に支配されていた。
「何で、こんな……」
吐息とともにつぶやくけれど、すぐには収まりそうもない。
理性とは無関係に昂ぶっていく劣情に舌打ちをして、僕は下半身に手を伸ばした。自分自身に触れ、欲望を吐き出そうとしても上手くはいかない。
ふと、テーブルの上にある鍵が、視界に写る。瞬間、僕自身が硬く反り立つ。
(う、そ……だろ?)
自分の事なのに、驚きを隠せない。それでも、自身に充てがっている手の動きは止まらなかった。
「あ……相沢、さん……っ!」
彼の名前を口にした直後、僕は呆気なく果ててしまった。
息を整えつつ、後処理をする。もう認めざるを得ない。僕は、相沢さんに囚われている。逃げても、抗っても、結局は彼を求めてしまう。
「いったい、どんな呪いだよ……」
吐き捨てるように言って、僕はソファーに身を沈めた。欲望は吐き出したはずなのに、自身はまだ緩く勃ち上がろうとしている。自分の体に嫌気が差し、僕は深くため息をついた。
* * * *
気がつくと、時計は午後十一時十四分になっていた。篝火の閉店時間は、とっくにすぎている。どうやら、いつの間にかソファーで眠っていたらしい。
「鍵……相沢さんに返さなきゃ」
うわ言のように言って、僕は軽く顔を洗って家を出た。
アパートの階段を登りながら、相沢さんの部屋はどこだっただろうかと記憶を漁る。けれど、逃げるのに必死で、正確な場所までは覚えていない。
どうしようかと考えているうちに、階段を登りきってしまった。ため息とともに廊下を見ると、二部屋先の扉の前に相沢さんがいた。
僕の姿を認めたのか、相沢さんはこちらを向いて手を振っている。
(そこまで仲良くないだろ……)
なんて思いながら、足早に相沢さんのもとに向かう。
「こんばんは。鍵、返しに来ました」
「よかったー。来てくれないかと思ったよ」
冗談めかして告げる相沢さんに、僕は鍵を渡した。
それじゃあと踵を返すと、
「ちょっと待って!」
と、相沢さんに腕を掴まれた。
「んっ……!」
びくりと肩を震わせ、僕ののどから音が漏れた。明確な声ではないものの、相沢さんには確実に聞こえているだろう。
「は、離してください! 僕の用事は、すでに終わったんですから」
口早に言って振り解こうとする。
「離しませーん。そんな反応されたら、帰したくなくなるっつの」
その言葉通り、相沢さんの力は緩まる気配がない。
僕は、唇を固く引き結んだまま、彼に掴まれた腕を引こうとする。
「もう、強情だなあ。とりあえず、話だけでも付き合ってよ」
と、相沢さんが苦笑する。廊下の灯りのせいか、どこか彼の表情に影があるような気がした。
話だけならと承諾し、僕は抵抗するのをやめた。話だけで終わらないだろうことは、充分にわかっている。けれど、無事に帰れたところで、この呪いからは逃れられないと理解してしまった。
彼の家に招かれ、リビングに通される。
「適当に座ってて」
と、相沢さんはカウンターキッチンへ向かった。
僕は、複雑な心境を抱えたまま、自分に一番近い椅子に腰かけた。
しばらくすると、相沢さんが二つのカクテルグラスを持って戻ってきた。どちらも、きれいな淡黄色をしているカクテルだ。
「はい、どうぞ」
と、僕の目の前に片方のグラスが置かれる。
「……ありがとうございます」
一応、お礼は言ったものの、それに手をつける気はなかった。
「一応、言っておくぜ。それ、アルコール度数、高いから」
言いながら、相沢さんは僕の対面に座る。
「話だけって約束でしたよね?」
疑問形ではあるものの、僕は彼を睨みつけながら非難する。
「そんなの、佳晴さんを招くための口実だよ、わかってるでしょ? ……まあいいや。ビトウィーン・ザ・シーツって言うんだけどさ、それ。つまり、そういう事だから」
と、相沢さんはさらっと言ってのけた。
「直球すぎるだろ!」
思わず、僕は声を上げてしまった。
カクテル名が、『ベッドに入って』という意味だからだ。
「佳晴さん相手に、もう騙し討ちとかしたくないからさ」
相沢さんは、そう言って薄く笑みを浮かべる。
「さっき、騙したくせに」
彼を睨みつけながら、僕はぽつりとつぶやいた。
「悪かったって。けど、ああでも言わないと、あんた、来てくれなかっただろ?」
弁解するように言って、相沢さんは肩をすくめる。
「それはそうですけど……。それで、貴方は、僕をどうしたいんですか?」
僕が仏頂面でたずねると、
「そのカクテル、そのままの意味だよ。さっきの反応を見ると、あんたもそのつもりなんだろ?」
と、相沢さんは妖艶な笑みを浮かべる。
結果的には、そうなのかもしれない。でも、少なくとも、彼のように積極的なわけではない。
「素直になった方が楽だぜ? それとも、襲われたいの?」
のどの奥で低く笑う相沢さん。グラスを傾ける仕草も、どこか色っぽく見える。
「襲われたいなんて、そんなわけないじゃないですか。ただ……」
何かを言いかけて、僕は相沢さんから視線をはずした。
「ただ、何?」
と、相沢さんが続く言葉を要求する。
攻められているわけでもないのに、彼の視線が痛い。
(何を言おうとしたんだ? 僕は……)
自分でもよくわかっていなくて、視線が泳ぐ。
思考がまとまらず、ただ、相沢さんへの思いが胸の中に汚泥のように積み重なっていく。
「佳晴さん」
相沢さんが、僕の名前を呼んで催促をする。
僕は、諦めたようにため息をついた。
「僕はただ、貴方に囚われてるだけなんです。貴方の視線、声、仕草。そのすべてが、僕を煽る。どうしても、昨夜の事が、頭から離れないんです」
独白のように言葉を紡ぐ。
相沢さんは、黙って僕の言葉を聞いている。
「ねえ、相沢さん。どうして、僕を抱いたりしたんですか? 貴方に抱かれなければ……貴方に会わなければ、こんなに苦しまなくて済んだのに!」
彼が何も言わないのをいいことに、僕はどす黒い感情を言葉に乗せてぶつけた。
顔色一つ変えずに聞いていた彼は、ほんの一瞬、仄暗い笑みを浮かべる。まばたきの間に、いつもの妖艶な笑みに戻っていた。だから、見間違えかとも思った。けれど、彼の雰囲気が、先ほどまでとは違うように感じた。
「あんたが、俺の好みのタイプだから」
にやりとした相沢さんが、端的にそう告げる。
「え……僕が、好みのタイプ……?」
僕は驚いて、彼の言葉を繰り返した。
それは、僕が自宅で即否定した可能性だ。まさか、彼の口から聞くことになるなんて、想像すらしていなかった。
「佳晴さんって、かわいい顔してるよな」
唐突に言って、相沢さんはカクテルを煽る。
「……よく言われます」
童顔だからしかたがないし、かわいいと言われることには慣れている。
「それに、チョロくて心配になる」
彼は、薄く笑いながら、ねっとりとした口調で告げる。
その言葉には、反論できなかった。悪い男に騙されて、のこのこ家に上がり込んでしまっているのだから。
「そういう奴って、だいたいお人好しでさ。ちょっと揺さぶりかければ、こっちの思い通りに動いてくれる。だから、超絶好みなんだよね」
と、相沢さんは舌なめずりをする。
悪役みたいな笑顔を浮かべる彼に、僕は嫌悪感を抱いた。バカにされているようで腹が立つ。
「そう……ですか。でも、本当に、僕を意のままにできると思ってるんですか?」
と、僕は苛立ちを言葉の端ににじませる。
「できるぜ。たぶんな」
たぶんとは言いつつも、彼は自信たっぷりに告げる。
おそらく、それは事実だろう。現に、僕の体は、すでに彼に囚われているのだから。けれど、そうだとしても、認められるわけがない。
「佳晴さんは、俺にはできないと思ってるんだ?」
相沢さんは、僕をうかがい見るようなまなざしでたずねる。
「ええ。本当の意味で、僕を意のままにはできないと思ってます」
彼を見据えて、毅然とした態度で答える。
「ふーん? じゃあ、試してみる?」
切れ長の目を細め、相沢さんは挑発するように言った。
「いいえ、結構です。僕は、これで帰りますから」
僕は、静かに告げて席を立つ。
「あれ、帰っちゃうの? 期待して、勃たせてるのに?」
と、相沢さんが、舐めるように僕の股間に視線を向けた。
瞬間、僕自身がどくりと脈打ち、ズボンの股布を押し上げようと迫り上がってくる。
「ぁ……くっ!」
恥辱と屈辱に声を上げ、僕は相沢さんを睨みつける。
「見つめただけなのに。それでも、帰るの?」
楽しそうに、相沢さんが問いかけてくる。
股間を凝視する彼の視線は、ゆっくりと僕の肢体を舐め上げる。その度に、肌はざわめいて感度を上げ、僕を焦らすように追い詰める。
息は上がり、腹の奥がしびれるように疼く。早く楽になりたい、そんな思いが脳裏によぎる。
(でも、本当にそれでいいのか?)
わずかに残った理性が、そう問いかけてきた。
(いや、まさか、そんな……あり得ないって!)一瞬、頭によぎった可能性を、僕は全力で否定してカクテルを煽るように飲む。ライチの爽やかな香りが、脳内をクリアにはしてくれる。けれど、目の前にある鍵の処遇については、何の解決策も浮かばなかった。僕は小さくため息をついて、他の席を眺める。カウンター席には、僕の他に一人の男性が座っていた。ボックス席の方に視線を向けると、カップルや友達同士らしい客が複数人いる。そんな中、一番奥の席に相沢さんの姿があった。(あ、いた!)鍵を返しに行こうと、席を立ちかける。けれど、彼の対面に肩を落とした女性が座っているのが見えた。(そういえば、マスターに何かお願いされてたっけ)座り直した僕は、相沢さんとマスターの先ほどの会話を思い返す。確か、相沢さんを指名していたような気がする。何をしているのだろうと眺めていると、相沢さんとその女性は、会話をしているだけのように見えた。ただ、楽しんでいるようには見えない。どうやら、彼女は、相沢さんに何かを相談しているらしい。マスターが彼に頼んでいたのは、客の相談に乗ってほしいというものだったようだ。(へえ。カウンセラー的な立ち位置なのか)なるほどと、様子をうかがう。次第に、女性の表情が、暗いものから明るいものへと変わっていく。きちんと相手に向き合っているようだ。そんな姿を見てしまったら、会話に割り込むだなんてできるはずもない。夜のお誘いをする口実だと思っていたのに。彼は、僕が思っているよりも誠実な人なのかもしれない。(昨日の夜の事は、魔が差しただけ……だよな。うん、きっとそうだ)と、僕は自分を納得させる。個人的に話がしたいというのも、言葉通りの意味なのだろう。そう考えた僕は、彼の手が空くまで待つことにした。けれど、そんな時間はやってこなかった。カクテルとローストナッツの量だけが増えていく。彼が僕の近くを通りすぎる度に声をかけようとして、やめた。仕事の邪魔はしたくない。僕は、
脳内に浮かぶ彼の指使いに合わせながら、僕は自身に指を這わせる。優しくなで、時に激しく上下させる。自分で触れているはずなのに、彼に触れられているように感じた。錯覚なのは、わかっている。けれど、彼に出会う前の自慰よりも快楽を感じていた。何度目かの絶頂の後、僕は荒い息のまま脱衣所に向かった。収まることを知らない下半身の疼きから、解放されたかった。肌に擦れる布の感触が、完全には引いていない熱を呼び戻す。敏感すぎる感覚を恨めしく思いながら、僕は服を脱いで風呂場に入った。熱いシャワーを頭から浴びていると、体内に残っている衝動がゆっくりと鎮まるのを感じた。シャワーの音を聞きながら、あれは事故だったのだと、心の中で自分に無理矢理、言い聞かせる。ざわついていた心が落ち着きを取り戻し、僕はシャワーを止めた。その瞬間、背中を水滴が流れ落ちていった。背筋を這う相沢さんの指の感触が、一気に蘇る。「ひぅっ……!」思わぬ声が漏れ出て、咄嗟に口に手を当てる。「くそっ……!」悪態をつき、頭をかきむしる。シャワーだけでは、解放されないのか。(……そうだ! ジムに行こう!)こういう時には、体を動かすのが一番いい。おろし立ての服に着替えた僕は、車で馴染みのジムに向かった。ジムの受付で会員証を見せて、更衣室に移動する。持ち込んだ服に着替えて、トレーニングスタジオに入ると、いつもより利用客が多い。今日が土曜日だから、というのもあるのだろう。「相馬さん、こんにちは! 今日は、どんなメニューにしますか?」背の高い男性に声をかけられ、わずかに肩を震わせた。のどが締まり、息が止まる。「……こんにちは」僕は、何気ないふうを装って、にこやかにあいさつを返した。ぎこちない笑顔になってはいないかと、気が気ではない。でも、彼は気づいていないのか、僕の様子には触れなかった。声をかけてきた男性は、インストラクターの九条《くじょう》さんだ。僕が初めて
意識が浮遊する感覚と少しの眩しさに、僕はゆっくりとまぶたを開けた。(ここ……どこだ?)知らない布団の感触に、ふと疑問に思う。視界に写るのは、窓から差し込む日光に照らされた、見覚えのある天井と壁。なのに、周囲にある調度品は、知らない物ばかりだった。「痛っ……!」頭が痛み、思考を邪魔してくる。昨夜は、行きつけのバーで飲んでいた。もしかしなくても、飲み過ぎたのだろう。久しぶりの二日酔いに、僕のテンションは急降下だ。とりあえずベッドから出ようとして、僕は違和感に気づいた。普段はあるはずの、布の感触がない。「……は?」布団の中を確認して、思わず、声が出てしまった。あり得ないことに、僕はパジャマはおろか、下着すら着ていなかった。熱帯夜でさえ、Tシャツに短パンは着ているというのに。しかも、自宅ではないだろう場所で、だ。(いやいやいや……さすがに、あり得ないって! これは……そう、夢だ! 夢!)なんて現実逃避をしながら、僕はもう一度、布団の中を確認する。「マジか……」視界に写るのは、素肌のままの下半身。少し手前に視線を移せば、上半身も見えてくる。けれど、やはり何も着ていない。この事実は、間違いようもなかった。なぜ、どうして……。そればかりが、頭の中を駆け巡る。「とりあえず、落ち着け!」深呼吸をして、室内を見回す。男物のジャケットが数着、壁にかけられている。けれど、自分の物ではない。普段、僕はジャケットをクローゼットにしまっているからだ。頭痛に耐えながら、視線を床の方へと滑らせていく。艶のあるフローリングには、埃一つ落ちていなかった。きれい好きな人が家主なのだろうと思い、見覚えのある木目には気づかない振りをした。フローリングなんて、どれも同じような木目のはずだと、考えるのを放棄する。ベッド脇を見ると、一人分の服が脱ぎ散らかされていた。間違いなく、僕の服だった。そそくさと服を着る。少しだけほっとしたところで、尻の内側にある違和感に気がついた。何かを擦りつけたような、そんなしびれ。(何だろう? これ……)どうにも気になる。でも、痛みがあるわけではない。落ち着かないけれど、一旦、意識の外に追いやって、部屋を出ることにした。扉を出た瞬間、隣の部屋から物音が聞こえてきた。おそらく、リビングかキッチンだろう。僕の他に、誰かがいるのは確実だ。緊張と